伊勢志摩百物語~渚?港を歩き憩う~
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- 10 - 志摩の地域は古来より現在に至るまで漁労が盛んな地域で、入江ごとに集落が幾つも点在しています。浦村町もそのひとつで、生浦湾を挟んで本浦と今浦の2集落からなっています。白浜海岸はこのうち本浦のほうにあり、「本」と「今」という地名から、本浦のほうにもともと人が住みついていたと考えられます。この浦村町本浦の白浜海岸から、遺跡が見つかり、「白浜遺跡」と名付けられました。 この遺跡は、海と山に挟まれた小さな海岸沿いにあり、竪穴住居跡と貝塚が発見されています。貝塚からは、沿岸で採れる小魚の骨や、外洋のマグロやイルカ、カツオなどの骨も見つかり、広い範囲で漁勞が営まれていたことが分かりました。また、シカやイノシシなどの骨も見つかり、漁労だけでなく狩猟も行われていたことが分かりました。また、骨こっ角かく器きとよばれるシカやイノシシの動物の骨や角などで作られた釣針やモリが見つかっており、骨も大切な資源であったと考えていた当時の暮らしが垣間見えます。 また、遺跡からは、小型の銅どう鐸たくが発見され、注目されています。銅鐸はご存知の通り、弥生時代に近畿地方を中心として用いられた祭祀器具です。三重県内では、松阪市久保町の草山遺跡からも小型銅鐸が発見されており、この2つの銅鐸は弥生時代後期頃廃棄されたと考えられています。一般に農耕祭祀器具とされる銅鐸ですが、この遺跡自体が農耕的な性格を持たないことから、農耕祭祀とは少し意味合いが違ったものと考えられています。弥生後期から古墳前期(3~4世紀代)を中心とした白浜遺跡。ここから当時の生活を偲ばせる多くの遺物が出土しました。自然の恵みに恩恵を受けた人々の生活について考えてみませんか。1km以上続く白い砂浜5.いにしえの生活に思いを馳せる  ―浦村町「白浜」 ―(鳥羽市)

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